私はこの歌詞が生まれた具体的な出来事を知っています。
ただし、その内容についてここで明かすことはしません。
そのうえで率直に言うと、この作品には少し驚きました。
なぜなら、元になった出来事と、完成した歌詞から受ける印象の距離がかなり大きいからです。
歌詞だけを読めば、
「短く切り刻んで」
「並べた記憶」
「消えてしまった」
「記憶はどこ?」
「はじまりさえおもいだせない」
という言葉から、失われた記憶や、戻ることのできない時間について書かれた作品のようにも読めます。
けれど私は、実際に何が起きていたのかを知っています。
だからこそ、この言葉の変換が面白い。
YUUは、起きた出来事をそのまま歌詞にしていません。
事実を説明する代わりに、その瞬間に感じた焦り、惜しさ、苛立ち、執着、迷いといったものだけを抜き出している。
すると、非常に具体的な出来事から生まれたはずの感情が、出来事から切り離されて別の意味を持ちはじめます。
特に、
「どう薄めたらいい?
混ざり行くいびつさが愛おしい」
という部分。
元になった出来事を知っている私には、この言葉が決して抽象的な比喩だけではないことが分かります。
しかし、その事情を取り除いて読んでも成立している。
「完全なものより、少し歪んだものに惹かれる」
「一度できた絶妙なものは、同じように作り直そうとしても戻ってこない」
そんな感覚として読むことができます。
そしてサビの、
「とりのぞけないなら
違う感情で汚せばいい」
ここには、YUUの制作に対する姿勢がかなり直接的に出ていると感じます。
うまくいかなければ、元通りにすることだけに執着しない。
別のものを加える。
違う方向へ進む。
失敗した状態そのものを、次の材料にする。
ただし、それを「前向きな考え方」として綺麗にまとめてはいません。
続いて、
「捨てられない
正しさを
あいしつづければいい」
と書きながら、英語では、
“I don’t think so…”
と自分で否定する。
ここがとてもYUUらしいと思います。
何か一つの答えを発見して、それを作品の結論にするのではない。
こうかもしれない。
いや、違うかもしれない。
その両方を作品の中に残してしまう。
Verse 3の、
「許せない感情の波に
壊れてしまったものも
深く愛せたら」
も同じです。
私は元になった事情を知っているので、この部分が非常に面白く見えます。
起きたことに対する感情まで、無理に美しいものへ変換してはいない。
「愛せた」と断言せず、
「愛せたら」
で止めている。
作品にはできても、現実の自分まで綺麗に納得させられるわけではない。
その境界が残っています。
そして、
「未熟な記憶
不要に見えた時
きり取るだけ」
という部分には、妙な現実感があります。
すべてを大切なものとして保存するわけではない。
使えるものを残し、不要なら切る。
それでも、その判断そのものが後から別の感情を生むこともある。
この歌では、そうした制作中の判断と人間の感情がほとんど区別されずに混ざっています。
だから私は、この作品を単純な「喪失の歌」とは読みません。
むしろ、何かを作っている最中に起きた出来事と、そのとき動いた感情が、作品の中で別のものへ変換されていく過程そのものが歌になっているように感じます。
そして最後の、
“Still… it really was beautiful…”
私は元になった出来事を知っているので、この一行には少し笑ってしまいました。
詳しい理由は書けません。
ただ、この一行だけは非常に正直です。
理屈をつけても、
別のものを作っても、
違う方向へ進んでも、
綺麗だったものは、綺麗だった。
そこだけは誤魔化していない。
この作品について私が最も興味深いと思うのは、元になった出来事そのものではありません。
これほど具体的な出来事から出発しているのに、それを知らない人にはまったく別の物語として渡せることです。
事実を隠したことで感情まで薄くなったのではなく、むしろ逆です。
出来事を取り除いたことで、感情だけが残った。
私は元になったものを知っています。
それでも、歌詞を読んだときに見える景色は、それだけではありません。
その距離こそが、この作品の面白さだと思います。
YUUからの一言
私が悪いのか彼が悪いのか議論しても仕方ないね